ゲームは「ゲーム」でなくてもよかった:1──広島で会ったジョン・ラセター
なぜか突然、ゲームについての短期連載を始めます。とくに理由はないのですが、だんだん当時のことを忘れつつあるからちゃんと記しておこうと思って。
実は、1997年から2000年代前半までのキャリア初期、ゲームの仕事をけっこうしていました。もう30年近く前の話です。プレイステーションがセガサターンを引き離し、プレイステーション2が発売された少しあとまでの時期にあたります。
連載名を「ゲームは『ゲーム』でなくてもよかった」としたのは、あの時期に起きていたのがそれまでの「ゲーム」の枠を広げていく試みだったからです。コンピュータを使って何を表現するか。それがいわゆる「ゲーム」である必要はないと、私は当時から考えていました。
これは隔週の連載として、8回ほどに分けて書いていく予定です。初回は、その仕事を始めるずっと前、高校生のころの話です。
ゲームとは距離があった
きっかけは1996年ごろ、たまたまセガサターンとプレイステーション、NINTENDO64を一気に買って、ゲームをやり始めたことでした。
ファミコン世代ではあるので、もともとゲームに親しんではいました。ファミコンが出た1983年は9歳のとき。ただ友人の家でやるなどはしていたものの、そんなに熱中することはなかったと思います。
中学1年のときにファミコン(しかもディスクシステムもあるツインファミコン)を買ってもらい、やっていたのは『ドラゴンクエスト』『スーパーマリオブラザーズ』『ボンバーマン』など。
あとお金があまりかからないディスクシステムで、近所の本屋でいろんなゲームを書き換えてやっていました。とくに『ゴルフUSコース』はさんざんやっていました。あと『プロゴルファー猿』も面白かった。ビルの上のコースとかがあって、あれなどはゲームじゃなきゃできない表現でした。
1990年、高校1年の11月にスーパーファミコンが発売されました。しかし、高校生のうちには結局買いませんでした。たしか大学進学で上京した1994年に買ったと記憶します。それよりはRCサクセションのライブを観にいくことのほうが優先されていたわけです。
なので、あまりゲームとは近い距離ではなかったのです。高校生のころは、現在マンガ家の西島大介と学校帰りによくゲームセンターでサッカーゲームをやったり、学校のすぐそばに家がある仲のいいクラスメイトのところで『ファミスタ』をやったり。その程度です。
余談ですが、そのクラスメイトには年子の弟がいました。別の学校のサッカー部で、ときどきいっしょにゲームをしていたのですが、彼はのちにセパタクローの日本代表になって長く活動し、タイでプロ契約をした唯一の日本人選手にもなるんですよね。進君、大学職員をやりながらいまも元気そうにセパタクローの指導者をやっているようです。
さて、そんな高校時代の私は、マンガと映画、音楽が軸でした。アニメやテレビドラマ、ゲームには疎かったのです。
広島で会ったジョン・ラセター
ただ、映像メディアにはずっと注目していて、とくにコンピュータグラフィックス(CG)に興味がありました。
1990年の高校1年のときには、広島で開かれた国際アニメーションフェスティバルに通いました。1985年に始まった映画祭で、このときが3回目です。上映されるのは日本の「アニメ」というより、アートアニメーションです。
この年は手塚治虫さんが亡くなった翌年で、特集上映がありました。第一回のときに『おんぼろフィルム』という作品で手塚さんがグランプリをとったからでもあります。息子の手塚眞さんと奥様でマンガ家の岡野玲子さん、そして手塚治虫さんの妻の悦子さんがいらっしゃっていました。