ゲームは「ゲーム」でなくてもよかった:2──プレステとサターンを買った1996年
ゲームのほうが進んでいた
高校1年のときに広島でジョン・ラセターの短編を観てから、CGの作品はそのうち世界中で創られるようになるのだろうと思っていました。
ところが、大学に入ってから触れたMacintosh用のCD-ROMコンテンツは、すごくつまらなかったのです。動作が重かったり、UIが悪かったり、アートの文脈に寄ったものが多かったり。当時は『pod』という月刊のCD-ROMマガジンもコンビニで発売されるなど盛り上がりを見せていました。
1990年代前半から中期にかけては、「マルチメディア」という言葉がさかんに使われていた時期です。CD-ROMこそが次のメディアだと期待されていました。
武蔵野美術大学に進学した私もそうしたクリエイティブ周りにいました。
1995年には、香港のSTAR TVの番組で構成のような仕事をして、現場でカメラを回すなどもしていました。これは私が唯一のテレビ番組制作にかかわった経験です。ADですらなかったですが。
1996年ごろはIT系の制作会社に出入りしていたこともあって、自分でもいろいろ企画を考えていたこともあります。そのひとつは、Hyper Cardというソフトで実際にかたちにして、売り込んだこともあります。既存のマンガのコマをバラバラにして、画面をクリックするたびに切り替わっていくというもの。画面切り替えの視覚効果で臨場感を出そうとしていました。途中に広告を入れるなどの工夫もして。
Hyper CardはAppleが1987年に出したソフトで、いまのPower Pointとそっくりなものです。私は武蔵野美術大学の1年のときにHyper Cardで複数の作品を創っていて、それが好評だったので、こういう企画を考えたのです。
そのマンガ企画をあるCD-ROMの制作会社に持ち込んだら、「こういう単純なものじゃなくて、部分的にアニメーションで動くようなものがいいんだよ」と言われて却下された記憶があります。サブカル系の会社だったのですが、当時の「マルチメディア」的なCD-ROMって、現代美術とかサブカル系とか、あるいはテクノ系とか、そういうひとたちが集まっていました。
いまは韓国のウェブトゥーンが若者にけっこう浸透しています。私はそのマンガ企画を意図的にシンプルにしていたのですが、それをわかってもらえなかった。マルチメディアという気取った感じじゃなくて、定着して広がるフォーマットにしようと考えたのです。結論から書くと、その会社には先見の明はまるでなかったわけですが、私は私で企画が早すぎたのと、プレゼン能力が低かった。
そんなこんながあり、1996年にプレステとサターン、NINTENDO64を買ってみたら、ゲームのほうがはるかに先へ進んでいたことに気づいたのです。「こっちかよ!」と、とても驚きました。プレステとどちらも発売は1994年の年末ですから、1年以上遅れて気づいたことになります。
アドベンチャーゲームの復権
最初に何を買ったのかは、あまり覚えていません。ただ、すごくおもしろかったのが『トワイライトシンドローム』(1996年)。学校を舞台にした、都市伝説的なホラーのゲームでした。「探索編」と「究明編」の2本が出ています。