【Article】忌野清志郎に教わった意思と覚悟──映画『愛し合ってるかい? 忌野清志郎が教えてくれた』
55周年のドキュメンタリー
ドキュメンタリー映画『愛し合ってるかい? 忌野清志郎が教えてくれた』を、オンラインのマスコミ試写で観ました。表題通り、ロックミュージシャン・忌野清志郎についてのドキュメンタリー作品です。公開は10月2日からで、相原裕美監督、東映ビデオの配給です。
なぜこのタイミングなのだろう、と最初は思いました。忌野清志郎が亡くなったのは2009年5月2日で、没後の区切りではありません。調べてみると、RCサクセションのデビューが1970年で、2025年が55周年にあたるようです。
構成は、ライブやレコーディングなどの過去映像を軸に、交友のあった人たちの証言を重ねていくもの。高校の同級生だった三浦友和、盟友の泉谷しげる、愛弟子の三宅伸治、俳優の竹中直人、サックスの梅津和時、作家の角田光代など。長女で消しゴムハンコ作家の百世さんも登場します。
証言を集めて人物像を立体化していくという、オーソドックスな方法です。私も観たことのなかった初期のRCサクセションの映像がかなり出てくるので、ファンにとっては嬉しい作品だと思います。
ただひとつ気になったのは、RCサクセションのメンバーだった小林和生と仲井戸麗市(チャボ)が登場しないことです。もちろん何らかの理由があるのでしょうが、彼らがいないのはこの作品の性格を考えるうえで小さくない気がしました。
バンドブーム期にはすでに重鎮
私にとっての忌野清志郎がどういう人だったかというと、存在を知ったときすでに大ベテランでした。
私が中高生の頃(1987~1993年)はバンドブームの真っ最中。『三宅裕司のいかすバンド天国』があり、THE BLUE HEARTSやJUN SKY WALKER(S)に同世代が熱狂していた。もちろん私も新しいバンドは好きでした。そのなかで40歳前後だった清志郎は、すでに日本のロックミュージックの重鎮でした。
ヒット曲も確実に出していました。1980年に「雨あがりの夜空に」、1982年に坂本龍一とコラボした「い・け・な・いルージュマジック」、1989年にザ・タイマーズで「デイ・ドリーム・ビリーバー」、1991年にCMソングでヒットした「パパの歌」、さらに幾度かリバイバルヒットした「スローバラード」などなど。歌謡曲からJ-POPに激変していく日本の音楽シーンにおいて、ロックミュージシャンとして確実に存在感を見せ続けてきました。
とは言え、爆発的ヒットを多く出したという印象が強いわけでもありません。オリコンチャートで1位になることはあっても、バンドブーム期も若いミュージシャンが脚光を浴びるなかで清志郎に注目している人はあまり多くなかったと感じています。少なくとも10代だった自分の周囲でRCサクセションを熱心に聴いている人はいませんでした。
自分は、高校生のときに雑誌『宝島』の「日本のロック」特集を読んで、1stアルバムの『初期のRCサクセション』(1972年)から順に聴いていきました。最初はアコースティックで、ロックではあるけれどフォークに近い音。それからエレキギターを使うようになって、どんどん変わっていきます。今回のドキュメンタリーではそうした彼の音楽性の変化についても触れられています。
1988年の『COVERS』騒動
私が清志郎を強く意識したのは、1988年のアルバム『COVERS』の騒動でした。
原発を扱った歌詞などが理由で、所属していたレコード会社の東芝EMIが発売を中止しました。原発関連の企業なので原発反対の歌は出せない──という判断。そのうえで「素晴しすぎて発売出来ません」という新聞広告が載りました。
1986年のチェルノブイリの原発事故を受けて創られたアルバムでした。私はまだ中学2年でしたが、これはまずいな、とはっきり思ったのを覚えています。