【ジャニーズと日本社会:26】なぜ顔を隠したのか──裁判と性加害疑惑から始まった「裏方」

新芸能学院との争いは東京地裁に移り、1967年には「同性愛裁判」として報じられます。ジャニー喜多川が顔を出さなくなっていったのは、この裁判と性加害疑惑のなかでのことでした。
松谷創一郎 2026.10.26
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疑惑とともに消えた顔

 ここで、ジャニー喜多川の顔が雑誌にどう載っていたかを、時系列で並べてみます。

 1964年4月号の『女学生の友』に、彼は「育ての親」として顔写真つきで登場しました。11月号でもグラビアで4人に囲まれ、翌1965年1月号には顔写真と直筆サインを載せています(第24回)。少女雑誌には、自分から顔を出していたのです。

 一方、そのあいだの1964年6月、新芸能学院で彼による性加害の訴えが起きます。そして、この争いを報じた記事では、彼の顔は載っていません。

 最初に報じた『週刊明星』1964年9月27日号に載っていたのは、テレビ局のスタジオで4人と話す後ろ姿だけでした。名和太郎夫妻とメリー喜多川は、顔のわかる写真が載っています。そして、疑惑を初めて報じた『週刊サンケイ』1965年3月29日号では、「本人の写してもらいたくないとの希望」で写真の掲載を断りました(第25回)。

 つまり、確認できる範囲では、彼の顔が消えていたのは、性加害の訴えと裁判を扱った記事だけでした。少女雑誌に「育ての親」としては顔を出し、疑惑の当事者としては顔を出さない。この使い分けは、1964年から65年にかけてすでに見られるのです。

「同性愛裁判」

 1964年の夏、ジャニーズは所属していた新芸能学院を離れ、渡辺プロダクションに移りました。学院代表の名和太郎はジャニー喜多川と4人に授業料などの支払いを求め、その請求には、ジャニー喜多川が学院の生徒にわいせつな行為をしたという主張も含まれていました。争いは1965年1月からの調停を経て、5月には東京地裁での本訴に移ります。

 『ヤングレディ』1965年11月8日号(講談社)は、これを「裁判にすべてを賭けるスターたち」という特集のひとつとして扱いました。雪村いづみや有馬稲子らの裁判と並べたもので、ジャニーズの項の見出しは「移籍にからんだ損害の請求」。しかし、この記事では性加害疑惑には触れられていません。

 状況が変わるのは1967年です。9月11日の第16回公判では、ジャニーズの4人が証人台に立ちました。

 『女性自身』1967年9月25日号は、これを「ジャニーズをめぐる“同性愛”裁判」という見出しで報じます。法廷で4人は、知らない、覚えていないと答えました。一方で、元学院生の秋本勇蔵さん(当時22歳)は自身の被害を証言しています。『週刊サンケイ』1965年3月29日号で、学院の内弟子としてジャニーズの世話をしていたと語っていた人物です。

 秋本さんは、それから半世紀以上経った2023年、テレビや新聞の取材にも多く応じています。

 そしてこの記事には、ジャニー喜多川の顔写真が掲載されています。

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