【ジャニーズと日本社会:21】1942年の『少年倶楽部』──投書欄に並んだ少年たちの声
この連載は時代を行き来して続いています。
前回までの5回にわたって、K-POPとジャニーズ事務所の関係を見てきました。今回からは、ジャニー喜多川個人に焦点を移します。
まず、戦前の古い少年雑誌から始めます。今回はジャニーズと一見異なる内容かのように思えます。しかし読み進めていただければ、なぜこの話をするか理解いただけるでしょう。
雑誌『少年倶楽部』
『少年倶楽部』は、1914年(大正3年)に大日本雄弁会講談社(現在の講談社)が創刊した少年向けの月刊誌でした。大正から昭和戦前期にかけて、少年誌の代表的存在と言えます。その内容は、小説や絵物語、マンガ、そして組み立て式の付録(戦艦や城の模型など)などです。
執筆陣には、現在でも名を知られる錚々たる面々がいました。吉川英治、田河水泡、大佛次郎、島田啓三、江戸川乱歩などです。なかでもよく知られるのは、田河水泡のマンガ『のらくろ』(1931年~)と江戸川乱歩の『怪人二十面相』(1936年~)でしょう。
最盛期だった1936年の発行部数は75万部とされ(※1)、当時の子どもたちにとってはとても馴染みのある雑誌だったわけです。いまで言えば、『週刊少年ジャンプ』と『コロコロコミック』と学年誌を合わせたような存在と考えるとわかりやすいかもしれません。
なお、戦後は1946年に『少年クラブ』と改題し、1962年に『週刊少年マガジン』と合併するかたちで休刊しています。
こうした雑誌には、たいてい読者の投書欄がありました。戦前の『少年倶楽部』では「友誌」という欄がそれにあたります。
テレビもインターネットもない時代、離れた同世代の考えを知る方法はほとんどありませんでした。投書欄は、全国の読者が誌面を通じて互いの存在を確かめ合う、数少ない場だったのです。また、自分の名前や文章が活字になって全国に届くこと自体が、少年たちにとって大きな出来事だったはずです。
もちろんいまのSNSのような即時性はありませんが、読者同士だけでなく読者と編集部もつなぐ場──雑誌を軸とする読者共同体を構築・維持する機能を果たしていたと考えられます(こうした読者投稿欄の活性化は戦時中を除けば、インターネットが普及する90年代後半まで続きます)。
戦時下の誌面
1936年には70万部を超えていた『少年倶楽部』ですが、状況が大きく変わるのは日中戦争に突入する1937年以降です。子どもたちの生活環境も変わっていきます。1941年4月には小学校が「国民学校」に改められ、同年12月には太平洋戦争が始まります。
そうしたなかで紙資源の統制も厳しくなり、『のらくろ』も1941年に連載を終えました。探偵小説も検閲されるようになり発表できなくなります。娯楽色が薄れ、戦意高揚を煽る記事が目立つようになります。
表紙も戦時であることを感じさせるものでした。1942年10月号では、いわゆる国民服を着た少年が大根を抱えるイラストです。その横に添えられている「護れ興亜の兵の家」というコピーは、戦中にしばしば使われていたスローガンです。戦争に赴く男性に対し、残された家族を守ろうというものです。